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森田芳光 年譜 の・ようなもの

1950

1953

1956

  1 月 25 日 東京・渋谷円山町に生まれる。

  両親は料亭を営んでいたため、

  森田少年にとって芸者衆はごく身近な存在だった。

  お客と接して人間の裏表を子供ながらに知った。

  また、芝居好きの祖母に連れられて歌舞伎や新国劇などにも

  通った。 この祖母はギャンブルも好きで、渋谷並木橋の場外馬

  券場にも連れて行った。のちに森田が“競馬大愛好家”になった

  のは自然の成り行きか・・・

「僕を映画監督にさせるつもりで、うちの環境があったわけじゃ

  ないないけど、大きな影響になったかもしれない」と後年、森

  田は語る。

  お手伝いさんと毎日、近所の神泉駅へ電車を見に行く。

  渋谷区立大向小学校入学。

  (1997 年統廃合され、現在、跡地は東急百貨店本店の

   シアター・コクーンになっている)

1957

1960

  東宝芸能学校に通う。

  TV ドラマ「長屋の諸君!」(「脱線トリオ」主演のコメディ)に

  子役として出演する。

  黒澤明の「椿三十郎」に驚愕し、初めて映画監督の名前を憶える。

  渋谷区立松濤中学校に入学。

  日本大学付属桜ケ丘高校に入学 新聞部に入り、映画評を担当。

「ドクトル・ジバゴ」のスケールに 感動し、映画の魅力に目覚める。

  ジャズに夢中になったのもこの頃。

  日本大学芸術学部放送学科に入学するが、学園紛争で大学は封鎖され 授業

  はなし。放送関係の設備も使えなかった。8ミリ映画を撮り始め、自主映

  画上映会で発表する。「映画」「天気予報」「遠近術」などが評価され

  る。大宅壮一・東京マスコミ塾に通う。

1962

1963

1966

1968

1972

1972

1978

1976

1978

1980

1981

  就職活動もしないまま、大学を卒業。久保田宣伝研究所に通う。

  東京・飯田橋の映画館ギンレイホールでアルバイトをしながら、8 ミリ映画を撮り続ける。

「水蒸気急行(1976)」など半世紀を経てなお瑞々しい作品が生まれた。

 

  生涯の公私にわたるパートナーとなる三沢和子と結婚。

  森田の 8 ミリ映画・集大成ともいうべき「ライブイン茅ヶ崎」を発表。

  サーフィンのメッカとして注目され始めた茅ケ崎の、地元に 生きる若者たちの日常を描いたこの作品は、

  自主映画界に一石を投じただけでなく、各方面から注目を集め、8ミリから35ミリへと飛 躍する大いなるきっかけとなる。

  この作品について森田は言う

「人の死なない青春映画があっても いいでしょう。青春って、もっと当たり前の、平凡なものだと思う」。

 

  三沢和子と「ニューズ・コーポレイション」を設立。

  9 月 12 日「の・ようなもの」公開。

  監督自ら脚本を書き、企画を立て、制作資金を調達し、(俳優との出演交渉で足元を見られないように)

  きちんとした事務所を開設し、 配給だけをプロに託すという、新人監督としては異例中の異例スタート。

「何を最初に作ったらいいかと考えたら、風俗と落語だった。この二つは誰よりもよく知っていたから」

  と後に森田は語っている。 さらに「決まり切ったパターンで人間関係を映し出すんじゃなくて、 何かのようなもの的にね。

  かえって、そこらへんに本当があるんじゃないかって」と。

  何もかもが型破りのこの作品はたいへんな反響を呼び、単館公開な がら大ヒットした上、ヨコハマ映画祭作品賞・新人監督賞 

  を受賞。「森田が出て来た時ほどの衝撃は未だにない」と 40 年経った今も言われている。

  この作品の宣伝コピー「人間て何て面白いんだろう」こそ森田映画の通底音。

1982

  デビュー作で一躍注目の的となった森田だが、

  次の仕事はなかなか 来ない。ようやく依頼が来たのは

  年が明けた 2 月だった。

  当時人気 No.1のアイドル・グループ「シブがき隊」を

  主演にしたこの作品、

「シブがき隊ボーイズ&ガールズ」(7 月 21 日公開)

「アイドルを観に来るファンに対してきっちり作って行く」

  ことに専念して実質12日間のロケで撮りあげた。

  ほぼ同時に日活・ロマンポルノ「(本)噂のストリッパー」も

  決まり、さらに「家族ゲーム」の話も来た。

  結果、同時に 1 か月で3本のシナリオを書くという

  荒業をやってのける。

  10 月 1 日「(本)噂のストリッパー」公開。

  興行的にはまあまあの成績 だったが、

  制作会社(にっかつ)の重役たちが絶賛。

  翌年 1 月に「ピ ンクカット 太く愛して深く愛して」を撮る。

1983

  1 月 21日「ピンクカット 太く愛して深く愛して」公開。

「ロマン・ポルノは思いきったことができて、若い監督の経験の場として本当にありがたかった」と

  森田は述懐している。

  その 2 日後に「家族ゲーム」クランクイン。撮影期間 18 日。

「助監督経験もなかったという未熟さを前 3 作を撮ることでかなり克服できたと思う。

  もし『の・ようなもの』のすぐ後にこの作品をやっていた ら、これほどの映画にはならなかったと思う」

  と後に森田は語っている。

  6 月 4 日「家族ゲーム」公開。

  この作品は国内の映画賞を総なめにし、スイス・ロカルノ映画祭に正式出品される。

  またニューヨークをはじめ米国各地でも公開された。

 

   8 月 1 日「ときめきに死す」クランクイン。

  このオファーが来た時は「良い作品を作る自信はあったが、ヒットは難しいから断るつもりだった。

  でも、主演が沢田研二(ジュリー)と知り、僕らの青春のシンボルだったジュリーを演出できる」と引き受ける。

1984

  2 月 18 日「ときめきに死す」公開。 (残念ながら)予想どおり、興行的には結果を出せなかったが

「自分ではすごく好きな映画。函館ロケ、人間関係、台詞の言い回し、カメラワーク、色彩、音楽、雰囲気全部がとても

  よかった」と後にコメントしている。

  40 年近くを経た今では、森田作品屈指の大人気作となっている。

「ときめきに死す」公開直後、「メイン・テーマ」クランクイン。

「森田組の天気の悪いツキはすべて使い果たした」というくらい 悪天候続きの沖縄ロケだったが、

  それがかえってこの映画に不思議な 幻想性を与える結果になった。どんなマイナスもプラスにしてしまうのだ、森田監督は。

 

  4 月、「絵のない映画」『いいわ』『だって』『そんな』という LP レコー ドの3部作を発表。

  日本映画では実現できない大仕掛けも「音」だけなら何でもできると、

  森田一流の「遊び感覚」が生み出した“もう一つ”の映画の傑作。

 

  7 月 14 日「メイン・テーマ」公開。

  この年の夏休みの大ヒット映画となり、角川ブランドも持った森田はまた一歩、メジャー監督としての地位を築く。

  次回作決定までにこんなエピソードが・・・

  ある日、制作会社サンダンス・カンパニ—の古澤氏より「来年の秋に 渋谷パンテオン、新宿ミラノ、

  セントラル(当時の映画館の最大チェーン)を空けたので、“森田芳光・松田優作のコンビ”でオリジナル作品を考えてほしい」 

  との話が来る。そこで「核シェルターを売り歩くセールスマンの話」を原稿にして 古澤氏、松田優作に見せるが猛反対される。

  またある日、サンダンス・カンパニ—の事務所で三人で議論していると、森田と松田優作が衝突。

  優作「表へ出ろ!」

  森田「(腕力では敵わないから)ピストルで撃ち殺してやる!」

  古澤「ここはオレの事務所だ。やるなら外でやれ」

  そこで、あまりのナンセンスさに優作が笑いだして、その場は収まったらしい。

1985

「60 か 70 歳になったら、漱石の『それから』をやりたい」と思って いた森田だが、

  松田優作、プロデューサー黒澤満が「今やることに意味がある!」と背中を押したこともあり、

  35 歳で「それから」を撮る。

「漱石の小説を読んだ人ががっかりしない映画」「漱石の読後感を映画を観終った時に感じられるような映画」「明治を

  古い時代と捉えず、 ポスト・モダンとするような映画」を目標とした。

  4 月 11 日「それから」クランクイン

  11 月 9 日「それから」公開。

  批評的にも興行的にも成功を収め、この年の各映画賞を席巻する。

  9 月 初のエッセイ集「東京監督」を上梓。
 

  11 月 キネマ旬報社より「思い出の森田芳光」刊行。

1986

1987

「それから」で純日本的な情念を描いた森田が

   次に拓いたのはシュールでナンセンスで、独特のリズム感あふれるコメディ映画「そろばんずく」だ。

「それから」で“若き巨匠”と呼ばれるようになると、

  それに甘んじたくないとそれを敢えて打ち消したくなるのが森田。

「いろいろな実験的なことを自由にやらせてもらったので、

  撮影中は楽しくてしょうがなかった」と森田。

  実際、この年の年賀状で“流行監督宣言”をして話題になった。

  5 月 カンヌ映画祭「監督週間」に「それから」が出品される。

 

  8 月 23 日「そろばんずく」公開。

  ヒットしたが、当時はびっくりされすぎて理解されなかった。

  が、今になって人気作品となっている。

  同じ撮影所で同じ時期に、森田が脚本を書いた

「ウホッホ探検隊」を根岸吉太郎が撮影している。
  10 月 18 日「ウホッホ探検隊」公開。

 

  4 月 「困ったときのアミダ様」を出版。

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1988

  純文学からナンセンス・コメディへの思い切ったジャンプの次は・・・

  ヤクザの抗争に翻弄される二人の若者を描いた「悲しい色やねん」。

「リアリティばかり追求すると人間の演出ができない」

  というセオリーを基に“東京っ子・森田”は“近未来の大阪”

  とでもいうような世界を構築する。

 

  12 月 10 日「悲しい色やねん」公開。

 

  10 月、脚本と総指揮を務めた「バカヤロー!」も公開。

「自分で監督してもよかったけれど、広がりが欲しかったし、

  これからはテレビや演劇、CMなど様々なジャンルの人が

  映画監督になる時代になる」と、異業種の若手が一話ずつ監督するこのオ

  ムニバス映画は大ヒットし、シリーズ化される。

  そして現在(2022 年)、別ジャンルの映画監督は

  ごく普通のことになっているが、これも森田が拓いた道だ。

1989

「バカヤロー!2」の併映作品として「愛と平成の色男」を撮る。

「“レコードの B 面”という発想で、軽く撮らなきゃいけない映画を一生懸命軽く撮った」という佳作。

  7 月 8 日「愛と平成の色男」公開。

  7 月 31 日「キッチン」クランクイン。

  吉本ばななのベストセラー小説が原作だが、「自分が脚本を書ける 素材だと直感して」オファーを受ける。

  前作「愛と平成の色男」は“バブル気分”全開の映画だったが、

  この「キッチン」では、すでにこれからの若者(人間)たちの

  孤独感やコミュニケーションの難しさ、生き辛さ、閉塞感など、

  “ポスト・バブル”の時代の感覚を先取りしたところも、

  実に森田らしい。

  10 月 28 日「キッチン」公開。

  NTT・年間テレビ CM「百年目の電話生活」シリーズを監督。

 

  TV ドラマ「今夜だけのお遊び(3 話シリーズ)」シナリオ執筆。

「バカヤロー!3ヘンな奴ら」公開。

  2 月 8 日「おいしい結婚」クランクイン。

 テーマ、主演俳優、タイトルまで制作会社で決定済みという枠組みの中で、

  オリジナル脚本を書くという“試練”を経験するが、

「口当たり のいい、ウェルメイドな、気持ちが温かくなるような娯楽映画を作ろ うと思った」

  と森田は後に語っている。 狙い通りの本作は好評で、興行成績も良好だった。

  5 月 18 日「おいしい結婚」公開。

  3 月「競馬!愛さずにいられない」を上梓。

  藤子・F・不二雄との共同開発企画として

「日常を逸脱した話でかつ 現実を観返すような話」をめざしたのが「未来の想い出」だ。
  8 月 29 日「未来の想い出」公開。

「ヒットを狙ったほうがいいのか、自分がやりたいと思うことをやったほうがいいのか・・・

  自分の方向性が分からなくなってしまった」

  森田は次の数年、「長い苦しい夏休み」を過ごすことになる。

  森田は監督になる前に、映画館に勤めていたため、ヒットしない時の 劇場などの不幸を知っていた。

  それゆえの葛藤でもあったのだ。実際、 森田は誰よりも映画宣伝キャンペーンを一生懸命にやった監督だった。

1990 

1991 

1992 

1993

1994

1995

  TV ドラマ「お目にかかれてうれしいわ」シナリオ執筆。

 

  週刊新潮で日本全国の地方競馬場を巡るエッセイ「馬が好き 人が好き 」を連載。

  のちに「森田芳光カントクと行く タビ(旅)・ユー(湯)・ ケイバ(馬)」(アリアドネ企画)として発行。

「(ハル)」の脚本を書き始める。原稿用紙ではなく、初めてパソコンを使って。

「人よりも早い時期からパソコンをやっていたので、パソコン通信というものも知っていた。

  新しいコミュニケーションとして文字だけで 遠距離でも会話ができる時代が来るんじゃないかと思った」という

  森田にはまさに先見の明があった。「ウィンドウズ96」発売の2 年前。

  まだ誰もパソコンを見たことのない時代だった。

  4 月 7 日「(ハル)」クランクイン。

  出演者を撮る、いわゆる撮影と並行して、

  パソコン画面の文字を撮影するのだが、スタッフの誰にも経験がない。

「読むことが気持ちいい レベルになるまで何度も何度もラボで実験した」

  当時はフィルムの 時代なので “フィルム・レコーディング” という方法で何か月もかけて作成したのだった。

  3 月 15 日「(ハル)」公開。

  だが、パソコン・メールというものがまだ一般的ではなかったため、

  興行的には不発だったが、大評判となり、

  4 年ぶりとなった本作で “森田復活”とまで言われ、数々の賞を受賞。

「興行的にはともかく、手応えはすごくあった。自分の財産として。

『(ハ ル)』がなかったら、今の自分はないかもしれない」

  と7年後に森田は告白している。

  JRA(日本中央競馬会)のテレビ CM(年間シリーズ)を監督。

  ただし、 後半は「失楽園」撮影のため、断念する。

  12 月 10 日「失楽園」クランクイン。

  新聞連載中の人気小説の映画化を「やります!」と即答した森田は

「女性が楽しめるポルノ映画として成功する可能性」を見抜いた。

「しかも『(ハル)』の次回作。純愛の後の溺愛。『それから』と

『そろばんずく』に匹敵するローテーション」でもあった。

1996

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1997

1998

  5 月 10 日「失楽園」公開。 森田の読みどおり、女性観客に支持されて大ヒットを記録する。

  丸の内東映に入場を待つ観客の行列が銀座一丁目の先まで続いて いたというのが、伝説として今に語り継がれている。

 

  日本アカデミー賞監督賞など、数々の映画賞も受賞。 モントリオール国際映画祭コンペティション部門に出品。

  5 月 11 日「39 刑法第三十九条」クランクイン。

  もともとサスペンス大好きの森田は

「ワン・カット、ワン・カット、画自体がサスペンスであるべき」

  という考えで、大森寿美男のオリ ジナルをもとに、脚本を共同開発する

  10 月 かながわ・ゆめ国体(式典総合プロデュース)

  5 月 1 日「39 刑法第三十九条」公開。

「一つの問題提起として一石を投じたということで、自分の中では

 満足度の高い作品」と森田は評している。映画界の評価も高く、

 森田だけでなく、スタッフ、キャストも各賞を受賞した。

 ベルリン映画祭コンペティション部門に出品。

 

  7 月 15 日「黒い家」クランクイン。

「原作に似た現実の事件もあったので、リアルな作りより“ポップなホラーを作ってみたかった。

  黒い、暗いものでなく、明るく黄色い ひまわりや青い空を見て怖い!と感じる感覚もあるのではないか」

  というのが本作の出発点だった。

  11 月 13 日「黒い家」公開。

  とくに若い観客にウケる。「残業がコワイ」という人が続出した・・・

  最近(2022 年)また、人気が再燃している。

1999

2002

  1月25日「模倣犯」クランクイン/3 月 15 日アップ。

  映画化にあたり、原作者の宮部みゆきが「監督は森田氏に」と指名し、

  森田も 「原作を読んでいてどんどんイメージが湧いてきて、これはいけると思った」

  「バラエティ番組に出ている人をたくさん起用したのは、バラエティ的な様相で犯罪の観念を映像化したかったからだ」

  と語っている。「人の命に一人も千人もない。この原作にそれを感じた」

  森田にとって 「悪に選ばれたピースも一人の人間」なのだ。

  「本当に何度観ても自分は感じる哲学映画だと思う。いつか分かっていただけると信じています」と。

 

  6月8日「模倣犯」 公開。 原作と異なる結末、賛否両論を巻き起こし、この年の“実写”興行収益 No.1となる。

2003

  1月 「海猫」シナ・ハン(シナリオ・ハンティング)

  4月15日「阿修羅のごとく」クランクイン。

  若いころから大ファンだった向田邦子のテレビドラマの映画化である。

  “森田組”の歴代主演女優をはじめ、豪華なキャストが揃う。

「この映画は日本映画の“寿司”、僕は一流の寿司職人になったつもりで監督をつとめた。変に作り込むよりも素材の良さを出し 

  ながら、目に見えないところに自分の技を活かす。さらに、顕微鏡で見るみたいに人 間を見ていけば、等身大のものよりも

  ダイナミックに見える」と森田は回想している。

「テレビ版が放映された 1979 年ころは“人間には阿修羅というもの がある“と言う発見が衝撃だったが、25 年経った今では、

  みんなが “阿修羅である”ことを知っている。それと折り合う生き方、前向きに生きる方法はないか、それをこの映画を観て、

  何となく感じてもらえればいい」と。

  まさに“人間って何て面白いんだろう”。

  9月24日 行定 勲監督の映画「世界の中心で、愛を叫ぶ」に出演

 

11月8日「阿修羅のごとく」公開。

「若い人が観ても、笑って、泣ける面白い作品になったと思う」

  という予想どおり、女性客に人気を博す。

  監督、スタッフ、キャストが各賞を受賞。

  モントリオール国際映画祭コンペティション部門に出品。

  12 月 キネマ旬報社より「森田芳光組」刊行。

  2月14日〜26日「海猫」冬ロケ。
  6月14日〜8月13日「海猫」夏ロケ&本撮影。

「デジタル化の波が急速に盛り上がり、人間の行動パターンや

  意識の変革が起こっているが、人間の心は所詮 CPUで出来て

  いるわけではないので、情とか愛とか憎しみはこんな時代にも

  当然のごとく存在している・・・

  日本の季節、風土を十二分に 見せながら、

  人間の根源的なテーマを探った作品を創りたかった」

  と森田は語っている。

2004

2005

  11月13日「海猫」公開 。

  7月25日「間宮兄弟」クランクイン/9月6日アップ。

「『間宮兄弟』は仲のいい兄弟ではなく、仲のいい友達と同義です。趣味を同じにしたり、空気感が同一の友達です。

  それは性もからまない、気とか精神の友です。今の人達はそのパートナーを求めています。

  そのアイデンティティがこの映画にはあるのです。それを間違えなければ、この映画はヒットします。

  宣伝にもその点をふまえて欲しい!それが唯一の願いです」

  と森田は関係者宛にこの手書きの一文を贈っている。

​・・        ​ ・・

2006

  5月 13 日「間宮兄弟」公開。

「小さな幸せがいっぱい」のこの作品はネット社会の人々に

  アナログの豊かさを提供した。

  13館からスタートした上映館はどんどん増えて、

  “小規模公開から 拡大公開へ”の成功例に。

  また、発売から一年以上経っても、ビデオ・ レンタルが

  “上位 10 位”以内という人気作品になった。

  9月18日「椿三十郎」クランクイン/12 月 1 日アップ。

「尊敬する黒澤監督作品のリメイクに身のひきしまる思いです。

  世界のクロサワの源は、全ての技術、演出力を駆使し、

  エンターテインメントとしての楽しさ、感動を追求し、

  結実していること だと思います。

  僕らは黒澤映画をリスペクトし、学んできました。

『椿三十郎』は、現代の息吹を感じる“人間ドラマ”です。

  時代劇というくくりを超えたこの “人間ドラマ”

  という部分を大切に、今の人にどう観て頂けるか、

  チャレンジと同時に歴史的 意義も感じております」

と森田は製作発表に際して、その決意と覚悟を述べている。

2007

  5月26日「サウスバウンド」クランクイン/7 月 18 日アップ。

「僕は家族で食卓を囲んだ記憶がなく、親と一緒にどこかに行ったこともない。

  僕の映画に家族をテーマにしたものが多いのは、家族というものに憧れがあるかもしれない」と森田は言う。

  さらに「インターネットが発達して、自分に合った土地や自分に合った人間がいる場所というのが探しやすくなった。

  僕たちはそろそろ自分がどこへ行くのか、どこが一番住みやすいかということを考える時期に来てると思う。

  自分の居場所を考えてほしい。 あなたの居場所はどこですか?それがこの映画を撮った一番大きな理由だ」

  とあるインタビューで森田は語っている。

 

  10月6日「サウスバウンド」公開。

 

  12月1日「椿三十郎」公開。

2009

  11月16日「わたし出すわ」クランクイン/12 月 22 日アップ。

  制作発表に際して、森田はこう語る。

「お金はひとにとって、とても大切なモノである・・・今の世の中、お金を使う、その目的を考える時期なのかと思う・・・

  経済が人の生活を大きく左右している 現在、お金の使い方が不条理に感じられる今だからこそ、この話が必要だと思った」 「おカネというのは、人の心がなければ生きないということ。 おカネがなくても人の心は生きる。でも、おカネがあれば、

  より人の心が生きるということもいえる。 おカネを有効に使うためには、自分が信じた人とか、信じた企業が相手じゃないと

  魂が生きない。リーマン・ショックだって、 関わった人間に魂がなかったから起こったこと。

  金融界の人々が目先の利益だけを追求し、(仕組みが複雑すぎて)愛情の持ちようのない証券におカネを賭けたから、

  とんでもないことになってしまった。もし、魂がある賭け方をしていれば、それなりの立ち直り方があったと思う。」

  10月31日「わたし出すわ」公開。

  12 月 3 日「武士の家計簿」クランクイン/2010 年 1 月 26 日アップ 初めて、京都の松竹撮影所で撮影。

  京都の持つ底力(美術、衣装、結髪、 俳優陣など)に驚愕と尊敬の念を抱き、

  その抜群のチームワークに「もっと早く京都に来るべきだった」と痛感した森田は、この後の企画として

  京都で撮影するものを複数準備していた。

「映画はいつも新しい切り口がないと意味がないし、毎回違ったコンセ プトで撮りたいと思っている。

  今回は“そろばん侍”という発想がすご く面白いと思った。どんな時代にも経済が社会の基盤にあるはずなのに、

  なぜそれが今まで一度も時代劇で描かれなかったのか。まさにコロンブスの卵だった・・・

  武士の時代に家計簿があったということ自体が驚きで 詳細な家計簿から家族の人間ドラマを作る意欲をかきたてられた」

  と森田。

 

 

​  7月「これでいいのだ!映画★赤塚不二夫」に出演。


  9月1日「僕達急行☆A 列車で行こう」クランクイン/10月19日アップ。

  森田組ではクランクアップすると必ず、打ち上げパーティを催していた。

  本作の打ち上げパーティ開催のお知らせは・・・

 「汗があふれ出る暑い暑い九州ロケからクランクイン(出発)した 僕達急行は、

  約40日間走り続けて先日、のぞみ地所の社長室で無事にクランクアップ(到着)

  しました。九州~都内近郊~都内・・・と、様々な電車や列車を乗り継ぎ、 事故や

  怪我も無く無事に走り終えたことは森田組のチームワークの賜物だと思います。

  ここに、皆様への感謝の気持ちを込めてささやかですが、小宴を催したいと

  思いますので、スタッフ、キャスト、関係者の皆様、 ぜひともご参加下さい!」

  九州でのロケにスタッフに配られた「九州ロケのしおり」にこんな一文があった

「各ロケ場所に関しましては、製作部で養生などをしますが、汚損や破損などしない

  よう、急いでいても走ったりせず、安全に作業してください」

  12月4日「武士の家計簿」公開。大ヒット。

  先行ロードショーの初日を大ヒットで飾った金沢で、森田は最初で 最後の一言「俺って幸せだよな」と。

  その後「大ヒット御礼」キャンペーンに各地を巡る。宣伝キャンペーン に誰よりも熱心だった森田の最後の行脚となる。

  1 月 18 日「僕達急行☆A 列車で行こう」0号試写。

  3 月 22 日 関係者試写開始。

「『間宮兄弟』にも通じる、利害関係のない、しがらみのない、 “共通の趣味を持つ仲の良い友達”は、

  今の時代に一番大切で幸せなものなのではないか」というのが森田のコンセプトだった。

  7 月 5 日 主題歌担当の「リップスライム」についての森田コメント

「僕がリップの音楽に感じるところは、歌詞がリズム重視、ではなく歌詞からリズムが派生している点が素晴らしいと思う。

  したがって、 リズムに乗りながらでもイメージがわいてきやすい。 『間宮兄弟』の時に初めて主題歌をお願いしたのだが、

  兄弟の持つ テンションのおかしさ、何とも言えない温かさがリップの音楽にぴったりだった。

  (中略)今回の映画『僕達急行』でも、僕ははじめから、リップに主題歌をお願いしたいと思っていた。主人公二人が仲良く、

  鉄道を介して友情を温める感じが、リップの友愛のセンスにピッタリだと思った。

  (中略)そのライド感、温かさ、主人公の気持ちを言っているような歌詞、いいなぁ! この曲をテーマにして、

  男子も女子も寂しいときは、みんな僕達急行に乗り込んでもらいたい」

  12月20日 森田はひとり「僕達急行」に乗った。

2010

2011

2008

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2012

  3月24日「僕達急行☆A 列車で行こう」公開。

2012

  12月 ぴあ「森田芳光祭」刊行。

  9月「森田芳光全映画」リトル・モアより刊行。

  12月「森田芳光コンプリート の・ようなものブルーレイボックス」発売。

  10社以上に渡る27作品ものボックスは世界でも類を見ない。 さまざまな障害を超えて実現。

2021

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