森田芳光 年譜 の・ようなもの

1950
1953
1956
1 月 25 日 東京・渋谷円山町に生まれる。
両親は料亭を営んでいたため、
森田少年にとって芸者衆はごく身近な存在だった。
お客と接して人間の裏表を子供ながらに知った。
また、芝居好きの祖母に連れられて歌舞伎や新国劇などにも
通った。 この祖母はギャンブルも好きで、渋谷並木橋の場外馬
券場にも連れて行った。のちに森田が“競馬大愛好家”になった
のは自然の成り行きか・・・
「僕を映画監督にさせるつもりで、うちの環境があったわけじゃ
ないないけど、大きな影響になったかもしれない」と後年、森
田は語る。
お手伝いさんと毎日、近所の神泉駅へ電車を見に行く。
渋谷区立大向小学校入学。
(1997 年統廃合され、現在、跡地は東急百貨店本店の
シアター・コクーンになっている)
1957
1960
東宝芸能学校に通う。
TV ドラマ「長屋の諸君!」(「脱線トリオ」主演のコメディ)に
子役として出演する。
黒澤明の「椿三十郎」に驚愕し、初めて映画監督の名前を憶える。
渋谷区立松濤中学校に入学。
日本大学付属桜ケ丘高校に入学 新聞部に入り、映画評を担当。
「ドクトル・ジバゴ」のスケールに 感動し、映画の魅力に目覚める。
ジャズに夢中になったのもこの頃。
日本大学芸術学部放送学科に入学するが、学園紛争で大学は封鎖され 授業
はなし。放送関係の設備も使えなかった。8ミリ映画を撮り始め、自主映
画上映会で発表する。「映画」「天気予報」「遠近術」などが評価され
る。大宅壮一・東京マスコミ塾に通う。
1962
1963
1966
1968
1972
ー

ー
1972
1978
1976
1978
1980
1981
就職活動もしないまま、大学を卒業。久保田宣伝研究所に通う。
東京・飯田橋の映画館ギンレイホールでアルバイトをしながら、8 ミリ映画を撮り続ける。
「水蒸気急行(1976)」など半世紀を経てなお瑞々しい作品が生まれた。
生涯の公私にわたるパートナーとなる三沢和子と結婚。
森田の 8 ミリ映画・集大成ともいうべき「ライブイン茅ヶ崎」を発表。
サーフィンのメッカとして注目され始めた茅ケ崎の、地元に 生きる若者たちの日常を描いたこの作品は、
自主映画界に一石を投じただけでなく、各方面から注目を集め、8ミリから35ミリへと飛 躍する大いなるきっかけとなる。
この作品について森田は言う
「人の死なない青春映画があっても いいでしょう。青春って、もっと当たり前の、平凡なものだと思う」。
三沢和子と「ニューズ・コーポレイション」を設立。
9 月 12 日「の・ようなもの」公開。
監督自ら脚本を書き、企画を立て、制作資金を調達し、(俳優との出演交渉で足元を見られないように)
きちんとした事務所を開設し、 配給だけをプロに託すという、新人監督としては異例中の異例スタート。
「何を最初に作ったらいいかと考えたら、風俗と落語だった。この二つは誰よりもよく知っていたから」
と後に森田は語っている。 さらに「決まり切ったパターンで人間関係を映し出すんじゃなくて、 何かのようなもの的にね。
かえって、そこらへんに本当があるんじゃないかって」と。
何もかもが型破りのこの作品はたいへんな反響を呼び、単館公開な がら大ヒットした上、ヨコハマ映画祭作品賞・新人監督賞
を受賞。「森田が出て来た時ほどの衝撃は未だにない」と 40 年経った今も言われている。
この作品の宣伝コピー「人間て何て面白いんだろう」こそ森田映画の通底音。

1982
デビュー作で一躍注目の的となった森田だが、
次の仕事はなかなか 来ない。ようやく依頼が来たのは
年が明けた 2 月だった。
当時人気 No.1のアイドル・グループ「シブがき隊」を
主演にしたこの作品、
「シブがき隊ボーイズ&ガールズ」(7 月 21 日公開)
「アイドルを観に来るファンに対してきっちり作って行く」
ことに専念して実質12日間のロケで撮りあげた。
ほぼ同時に日活・ロマンポルノ「(本)噂のストリッパー」も
決まり、さらに「家族ゲーム」の話も来た。
結果、同時に 1 か月で3本のシナリオを書くという
荒業をやってのける。
10 月 1 日「(本)噂のストリッパー」公開。
興行的にはまあまあの成績 だったが、
制作会社(にっかつ)の重役たちが絶賛。
翌年 1 月に「ピ ンクカット 太く愛して深く愛して」を撮る。

1983
1 月 21日「ピンクカット 太く愛して深く愛して」公開。
「ロマン・ポルノは思いきったことができて、若い監督の経験の場として本当にありがたかった」と
森田は述懐している。
その 2 日後に「家族ゲーム」クランクイン。撮影期間 18 日。
「助監督経験もなかったという未熟さを前 3 作を撮ることでかなり克服できたと思う。
もし『の・ようなもの』のすぐ後にこの作品をやっていた ら、これほどの映画にはならなかったと思う」
と後に森田は語っている。
6 月 4 日「家族ゲーム」公開。
この作品は国内の映画賞を総なめにし、スイス・ロカルノ映画祭に正式出品される。
またニューヨークをはじめ米国各地でも公開された。
8 月 1 日「ときめきに死す」クランクイン。
このオファーが来た時は「良い作品を作る自信はあったが、ヒットは難しいから断るつもりだった。
でも、主演が沢田研二(ジュリー)と知り、僕らの青春のシンボルだったジュリーを演出できる」と引き受ける。

1984
2 月 18 日「ときめきに死す」公開。 (残念ながら)予想どおり、興行的には結果を出せなかったが
「自分ではすごく好きな映画。函館ロケ、人間関係、台詞の言い回し、カメラワーク、色彩、音楽、雰囲気全部がとても
よかった」と後にコメントしている。
40 年近くを経た今では、森田作品屈指の大人気作となっている。
「ときめきに死す」公開直後、「メイン・テーマ」クランクイン。
「森田組の天気の悪いツキはすべて使い果たした」というくらい 悪天候続きの沖縄ロケだったが、
それがかえってこの映画に不思議な 幻想性を与える結果になった。どんなマイナスもプラスにしてしまうのだ、森田監督は。
4 月、「絵のない映画」『いいわ』『だって』『そんな』という LP レコー ドの3部作を発表。
日本映画では実現できない大仕掛けも「音」だけなら何でもできると、
森田一流の「遊び感覚」が生み出した“もう一つ”の映画の傑作。
7 月 14 日「メイン・テーマ」公開。
この年の夏休みの大ヒット映画となり、角川ブランドも持った森田はまた一歩、メジャー監督としての地位を築く。
次回作決定までにこんなエピソードが・・・
ある日、制作会社サンダンス・カンパニ—の古澤氏より「来年の秋に 渋谷パンテオン、新宿ミラノ、
セントラル(当時の映画館の最大チェーン)を空けたので、“森田芳光・松田優作のコンビ”でオリジナル作品を考えてほしい」
との話が来る。そこで「核シェルターを売り歩くセールスマンの話」を原稿にして 古澤氏、松田優作に見せるが猛反対される。
またある日、サンダンス・カンパニ—の事務所で三人で議論していると、森田と松田優作が衝突。
優作「表へ出ろ!」
森田「(腕力では敵わないから)ピストルで撃ち殺してやる!」
古澤「ここはオレの事務所だ。やるなら外でやれ」
そこで、あまりのナンセンスさに優作が笑いだして、その場は収まったらしい。

1985
「60 か 70 歳になったら、漱石の『それから』をやりたい」と思って いた森田だが、
松田優作、プロデューサー黒澤満が「今やることに意味がある!」と背中を押したこともあり、
35 歳で「それから」を撮る。
「漱石の小説を読んだ人ががっかりしない映画」「漱石の読後感を映画を観終った時に感じられるような映画」「明治を
古い時代と捉えず、 ポスト・モダンとするような映画」を目標とした。
4 月 11 日「それから」クランクイン
11 月 9 日「それから」公開。
批評的にも興行的にも成功を収め、この年の各映画賞を席巻する。
9 月 初のエッセイ集「東京監督」を上梓。
11 月 キネマ旬報社より「思い出の森田芳光」刊行。

1986
1987
「それから」で純日本的な情念を描いた森田が
次に拓いたのはシュールでナンセンスで、独特のリズム感あふれるコメディ映画「そろばんずく」だ。
「それから」で“若き巨匠”と呼ばれるようになると、
それに甘んじたくないとそれを敢えて打ち消したくなるのが森田。
「いろいろな実験的なことを自由にやらせてもらったので、
撮影中は楽しくてしょうがなかった」と森田。
実際、この年の年賀状で“流行監督宣言”をして話題になった。
5 月 カンヌ映画祭「監督週間」に「それから」が出品される。
8 月 23 日「そろばんずく」公開。
ヒットしたが、当時はびっくりされすぎて理解されなかった。
が、今になって人気作品となっている。
同じ撮影所で同じ時期に、森田が脚本を書いた
「ウホッホ探検隊」を根岸吉太郎が撮影している。
10 月 18 日「ウホッホ探検隊」公開。
4 月 「困ったときのアミダ様」を出版。


1988
純文学からナンセンス・コメディへの思い切ったジャンプの次は・・・
ヤクザの抗争に翻弄される二人の若者を描いた「悲しい色やねん」。
「リアリティばかり追求すると人間の演出ができない」
というセオリーを基に“東京っ子・森田”は“近未来の大阪”
とでもいうような世界を構築する。
12 月 10 日「悲しい色やねん」公開。
10 月、脚本と総指揮を務めた「バカヤロー!」も公開。
「自分で監督してもよかったけれど、広がりが欲しかったし、
これからはテレビや演劇、CMなど様々なジャンルの人が
映画監督になる時代になる」と、異業種の若手が一話ずつ監督するこのオ
ムニバス映画は大ヒットし、シリーズ化される。
そして現在(2022 年)、別ジャンルの映画監督は
ごく普通のことになっているが、これも森田が拓いた道だ。
1989
「バカヤロー!2」の併映作品として「愛と平成の色男」を撮る。
「“レコードの B 面”という発想で、軽く撮らなきゃいけない映画を一生懸命軽く撮った」という佳作。
7 月 8 日「愛と平成の色男」公開。
7 月 31 日「キッチン」クランクイン。
吉本ばななのベストセラー小説が原作だが、「自分が脚本を書ける 素材だと直感して」オファーを受ける。
前作「愛と平成の色男」は“バブル気分”全開の映画だったが、
この「キッチン」では、すでにこれからの若者(人間)たちの
孤独感やコミュニケーションの難しさ、生き辛さ、閉塞感など、
“ポスト・バブル”の時代の感覚を先取りしたところも、
実に森田らしい。
10 月 28 日「キッチン」公開。
NTT・年間テレビ CM「百年目の電話生活」シリーズを監督。
TV ドラマ「今夜だけのお遊び(3 話シリーズ)」シナリオ執筆。
「バカヤロー!3ヘンな奴ら」公開。
2 月 8 日「おいしい結婚」クランクイン。
テーマ、主演俳優、タイトルまで制作会社で決定済みという枠組みの中で、
オリジナル脚本を書くという“試練”を経験するが、
「口当たり のいい、ウェルメイドな、気持ちが温かくなるような娯楽映画を作ろ うと思った」
と森田は後に語っている。 狙い通りの本作は好評で、興行成績も良好だった。
5 月 18 日「おいしい結婚」公開。
3 月「競馬!愛さずにいられない」を上梓。
藤子・F・不二雄との共同開発企画として
「日常を逸脱した話でかつ 現実を観返すような話」をめざしたのが「未来の想い出」だ。
8 月 29 日「未来の想い出」公開。
「ヒットを狙ったほうがいいのか、自分がやりたいと思うことをやったほうがいいのか・・・
自分の方向性が分からなくなってしまった」
森田は次の数年、「長い苦しい夏休み」を過ごすことになる。
森田は監督になる前に、映画館に勤めていたため、ヒットしない時の 劇場などの不幸を知っていた。
それゆえの葛藤でもあったのだ。実際、 森田は誰よりも映画宣伝キャンペーンを一生懸命にやった監督だった。
1990
1991
1992


1993
1994
1995
TV ドラマ「お目にかかれてうれしいわ」シナリオ執筆。
週刊新潮で日本全国の地方競馬場を巡るエッセイ「馬が好き 人が好き 」を連載。
のちに「森田芳光カントクと行く タビ(旅)・ユー(湯)・ ケイバ(馬)」(アリアドネ企画)として発行。
「(ハル)」の脚本を書き始める。原稿用紙ではなく、初めてパソコンを使って。
「人よりも早い時期からパソコンをやっていたので、パソコン通信というものも知っていた。
新しいコミュニケーションとして文字だけで 遠距離でも会話ができる時代が来るんじゃないかと思った」という
森田にはまさに先見の明があった。「ウィンドウズ96」発売の2 年前。
まだ誰もパソコンを見たことのない時代だった。
4 月 7 日「(ハル)」クランクイン。
出演者を撮る、いわゆる撮影と並行して、
パソコン画面の文字を撮影するのだが、スタッフの誰にも経験がない。
「読むことが気持ちいい レベルになるまで何度も何度もラボで実験した」
当時はフィルムの 時代なので “フィルム・レコーディング” という方法で何か月もかけて作成したのだった。
3 月 15 日「(ハル)」公開。
だが、パソコン・メールというものがまだ一般的ではなかったため、
興行的には不発だったが、大評判となり、
4 年ぶりとなった本作で “森田復活”とまで言われ、数々の賞を受賞。
「興行的にはともかく、手応えはすごくあった。自分の財産として。
『(ハ ル)』がなかったら、今の自分はないかもしれない」
と7年後に森田は告白している。
JRA(日本中央競馬会)のテレビ CM(年間シリーズ)を監督。
ただし、 後半は「失楽園」撮影のため、断念する。
12 月 10 日「失楽園」クランクイン。
新聞連載中の人気小説の映画化を「やります!」と即答した森田は
「女性が楽しめるポルノ映画として成功する可能性」を見抜いた。
「しかも『(ハル)』の次回作。純愛の後の溺愛。『それから』と
『そろばんずく』に匹敵するローテーション」でもあった。

1996

1997